因果応報(いんがおうほう)は、行動や出来事に対する結果が、それに関連する要因や原因に応じて起こるという考え方を指す言葉です。
これは主に宗教的・倫理的な文脈で言及されることが多いですが、一般的には「善行は善果を、悪行は悪果を生む」という意味合いがあります。
しかし、現実を生きていると、必ずしも悪行が裁かれ善行が報われるわけではないことに気づきませんか?
良い人が騙されたり不幸に見舞われる、かと思えば、明らかに嫌な奴や不誠実な人間が得をしたり不正で成功や名声を得たりする。
じつに理不尽だし、おかしいと思いませんか?
神様仏様から言わせれば「あの世に行けば報われるのです」など悟られそうな話ですが、
この世で生きている自分たちとしては、今ここで正しい因果応報を受けて幸せになりたいものです。
そこで今回は、因果応報の本当の意味での恐ろしさと、なぜいじめの加害者は必ずしも因果応報の報いを受けないのか?本質的な理由についてお話します。
【因果応報の恐ろしさ】人々に模範と社会的制裁の恐怖を意識させる
まずはじめに、一般的に考えられている因果応報の恐ろしさをいくつかの側面から説明します。
因果応報の恐ろしさ①倫理と行動の連関(バチが当たった)
因果応報の考え方によれば、個人や集団が行った行動や選択は、将来の結果に影響を及ぼすとされています。
悪行が悪い結果をもたらし、善行が善い結果をもたらすということは、倫理的な観点からみると人々に自己責任を意識させる一方で、誤った選択が深刻な後悔をもたらす可能性も示唆します。
たとえば、昔の人は「お天道様が見てるよ」「ほら、バチが当たった」などの因果応報の表現を使って子供をしつけました。
因果応報の言葉には、正しい生き方とはどんなものか規範やルールを人々に意識させる効果があるのです。
因果応報の恐ろしさ②誤った判断と後悔(罪悪感の深刻化で苦しむ罰)
因果応報の考え方が浸透している社会では、人々は自分の行動が将来にどのような影響を及ぼすかを常に意識して行動する傾向があります。
例えば、万引きやいじめなどの悪行を行った人は、過去の選択や行動に対する後悔が日に日に募ることがあります。
過去の悪い行動が悪い未来をもたらすと因果応報を本人が信じることで、罪悪感や後悔が深刻化し精神的に苦しむ罰を受けることとなります。
因果応報の恐ろしさ③社会的影響と恐怖(一般大衆による社会的制裁)
因果応報の考え方が支配的な社会では、人々は他人の行動を監視し、その行動が将来にどのような結果をもたらすかを注視する傾向があります。
これは個人の自由やプライバシーを制約する可能性があり、また他人の行動に対する厳しい評価や批判を生む恐れがあります。
たとえば昨今、事件やいじめの加害者の情報をインターネットやSNS上に晒す『社会的制裁』が問題となっていますよね。
因果応報に似た言葉として『勧善懲悪(かんぜんちょうあく)』があります。勧善懲悪とは「善良な人や善い行いを奨励して、悪者や悪い行いをこらしめること」という意味です。
ネット上の匿名による社会的制裁は、「悪者は制裁されるべきだ、実名を晒して生涯に渡り罪を負うべきだ、自業自得だ」勧善懲悪を理想とする、ある意味歪んだ集団心理が生み出す残酷な側面があると言えるでしょう。
以上のように、因果応報の恐ろしさは、その影響が人々の考え方や行動に及ぶ幅広い側面に関わることから来ています。
人々に倫理的な行動や自己責任を意識させる一方で、過度な恐怖や社会的制約をもたらす可能性もあることが、因果応報の恐ろさです。
【いじめに因果応報がない理由】なぜいじめの加害者は必ずしも懲罰を受けないのか?
では、『いじめと因果応報』についてはどのように考えれば良いでしょう。
多くの人が気づいているとおり、いじめの加害者は必ずしも罰を受けるわけではありませんし、いじめられた人が幸せになれるわけでもありません。
場合によっては、いじめの加害者が大きな成功と幸福を掴み、いじめの被害者が惨めで苦しい人生を送ったまま生涯を終えることさえあります。
なぜこのような残酷で理不尽なことが起きるのでしょう。
いじめに因果応報が起きない理由は、複雑に絡み合った「社会的・倫理的・心理的要因」を紐解くと見えてきます。
以下にいくつかの要因を挙げます。
いじめに因果応報が起きない理由①多因子性と社会環境の影響
いじめの加害者が引き起こす悪い結果は、その加害行動だけによるものではなく、被害者や社会環境など、多くの因子が影響します。
加害者の行動だけが結果に影響を及ぼすのではなく、被害者や周囲の人々の反応も結果に影響を与えます。
そのため、一つの行動だけが特定の結果につながるわけでなく因果関係を明確にすることは難しいです。
いじめに因果応報が起きない理由②倫理的複雑さ
いじめの加害者の行動に関しては、倫理的な問題が複雑に絡み合っています。彼らは遊びや快楽といった身勝手な理由だけでいじめを行っているとは限りません。
特に、彼らが幼少期に虐待やトラウマを経験している場合など、自身の抱える問題やストレスを攻撃しやすい相手に対してぶつけているケースが多く見られます。
そのため、因果応報の考え方だけで加害者の行動と結果を評価することは難しい側面があります。
いじめに因果応報が起きない理由③行動の評価の主観性
因果応報の考え方は、善行と悪行がそれぞれ善い結果と悪い結果を引き起こすという前提に基づいています。
しかし、何が「善行」であり何が「悪行」であるかはしばしば主観的な判断に依存します。
いじめの加害者の行動が社会的に否定的であるとしても、その行動によって引き起こされる意味や結果は、当人から見れば違った『意義・信念・正義』をもたらすことがあるのです。
このように、いじめが起きる現象や結果については複雑な要因が絡み合いますし、加害者が必ずしも懲罰を受けるとは限りません。
こういった複雑性や理不尽な現実をもって「いじめには因果応報がない」と結論づける人もいますが、それは違います。
ある1点に気づくだけで、私たちは因果応報の『真実・確実性』が見えるようになるからです。
その1点とは、被害者・加害者自身の『思考・感情』です。
【いじめの因果応報とスピリチュアル】引き寄せの法則ですべてを理解できる
いじめがもたらす結末は、被害者・加害者本人自身の『思考・感情』と正確にリンクします。
「思考は現実化する」「引き寄せの法則」という言葉を見聞きしたことのある人も多いでしょう。
いじめと因果応報の関係も、まさにこれが当てはまるのです。
たとえば、いじめの加害者が何の悪意もなく「ふざけているだけ」と認識しているときは、本人は「カラッと明るい気分」でいます。
引き寄せの法則は、本人の思考や感情に正確に反応します。
明るい気持ちでいる人には明るいことが起きるため、懲罰を受けるなどの悪いことが降りかからないのです。
しかし、その後ネットやニュース等で、いじめに対する社会的制裁の恐ろしさを目にしたり、いっしょにふざけていた仲間から後悔の念を聞かされるなど、
過去にいじめをした事実が加害者自身に重くのしかかり、反省や罪悪感を抱かせる場合があります。
すると、加害者本人は「悪い気分」に苛まれるようになり、その悪い気分が引き寄せの法則により『悪い運気や出来事』を運んでくるのです。
たとえば、仕事で大きな失敗をしたり退職に追い込まれる、恋人と破局したり離婚する、金銭トラブルを起こしたり、事件事故に巻き込まれるなどの不幸が続くようになります。
いじめの加害者として直接的に罰を受けずとも、因果応報が適用されるのです。
ここで重要なのは、いじめの加害者に起きる因果応報は、『加害者本人自身の』思考・感情に反応する、という点です。
先ほど、このような話をしました。
いじめの加害者の行動が社会的に否定的であるとしても、その行動によって引き起こされる意味や結果は、当人から見れば違った『意義・信念・正義』をもたらすことがあるのです。
いじめをしてきた加害者本人が、当時やその後の人生において、なんの疑いもなく「あの日々は楽しかった」という認識で捉えている限り、
(あるいは当時のことを覚えてすらいない場合)
その当人に不幸は起きないのです。
思考は現実化する。
これは、『いじめの被害者本人』にも言えることです。
残酷な話だと思われるかもしれませんが、過去に受けたいじめを引きずっている限り、被害者本人が幸せになることは難しいことなのです。
これが、いじめにおける因果応報の正体であり、
スピリチュアル的に言うと、人生や宇宙における絶対的な法則です。
いじめた人も、いじめられた人も、過去を引きずっている間は苦しみから抜け出すことはできません。
もし、あなたがいじめに苦しんできたり、理不尽な世の中に絶望を感じているのなら、こちらを読んでみてください。
現実を変えられる人と変えられない人の、たった1つの決定的な違い
まとめ
因果応報の恐ろしさは、人々に模範と社会的制裁の恐怖を意識させることです。
しかし、必ずしも善行が報われ悪行が懲罰を受けるとは限りません。
いじめの加害者に因果応報が適用されない原因は、加害者本人の『思考・感情』にあります。思考は現実化するのです。
詳しく知りたい人は『エイブラハムの引き寄せの法則』を読むと良いです。